1: まさと ◆RHASHorGAg @ターンオーヴァーφ ★@\(^o^)/ 2014/12/20(土) 23:43:23.71 ID:???0.net
「ジャンボ鶴田」殿堂入り…五輪挫折から49歳死まで「人生はチャレンジ」ぶれず
産経新聞 12月20日(土)20時15分配信
「人生はチャレンジだ」-。
ジャンボ鶴田(1951年3月~2000年5月)という昭和のプロレス界を代表する人気レスラーが米国で「殿堂入り」を果たすことになった。
日本人としては、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次いで4人目の快挙。
若い頃はあと一歩のところで勝ちきることができない「善戦マン」などと揶揄されたが、
眠っていた才能が開花すると「プロレス界史上最強」とまで言われた。
没後15年を迎える中、鶴田の原点ともいえる米国で再び光が当たることをファンは心底喜んでいる。
日々、挑戦することを信条にした鶴田の49年の生涯をひもとく。
■バスケ出身のレスラー
本名・鶴田友美。身長196センチ。
いかつい体には似つかわしくない女性的な優しい名は、鶴田の優しい人柄そのものだ。
山梨県のぶどう園の農家に生まれた。
日川高校から中大法学部に進み、大学1年までバスケットボールで活躍し、五輪出場の夢を抱いてレスリングに転向した。
天性の運動神経ですぐさま頭角を現し、1972年ミュンヘン五輪に出場。
軽量級の加藤喜代美らが金メダルに輝く中で、鶴田は初のひのき舞台で並み居るヘビー級選手に歯が立たなかった。
しかし、五輪での挫折がプロレスに向かわせるきっかけになる。
レスリングで培った技術と体力がジャイアント馬場の目に留まった。のちに師となる馬場からプロレス入りを勧められると、挑戦する心に火がついた。
その入団会見で発した「全日本プロレスに就職します」は、初々しい新社会人を彷彿とさせ、鶴田らしい"名ゼリフ"として今も語り継がれている。
米国テキサス州でプロデビューを果たし、150戦を消化しながらその名をとどろかせた。
帰国後は「全日のエース」としてタイトルを奪取。
馬場人気の陰りとは裏腹に、怪物・鶴田の人気と実力は誰もが認めるところとなった。
■「敵地」で受けた鶴田コール
同業レスラーから恐れられるほどの破壊力を誇ったが、馬場や猪木と違って鶴田には「伝説」が少ない。
その全盛期が短かったことも一因だが、90年2月10日は「プロレスの歴史を変えた日」と形容されるほど、ファンや関係者にインパクトを与えた。
東京ドームで開催された新日本プロレスの新年イベントに、全日本のレスラーが参加したのだからタダ事ではない。
アントニオ猪木の「新日本」は、ジャイアント馬場の「全日本」と袂を分かった団体であり、当時、両者は絶縁状態のような関係にあった。
緊迫ムードに包まれる中、新日イベントに全日の鶴田らが参戦すると、6万人の観客は罵声を浴びせるどころか、熱狂的な拍手とコールを送った。
団体の枠を超えた興行という複雑な事情が影響してか、テレビ中継はなく、その後も公式の映像は世に出回ることがなかった。
その場に居合わせたファンだけが味わうことができた感動の舞台は、さながら「プロレス版オリンピック」と化したという。
■何歳でも挑戦できる
"大卒プロレスラー"は引退後も、スポーツ生理学を学ぶなどインテリジェンスに包まれていた。
しかし、20代、30代の無理がたたって、40代になると満身創痍の体となった。
海外で肝臓移植の手術を受けているときにショック症状を起こし、49歳の若さで命を落とす。
死の瞬間まで、信条としたチャレンジ精神を絶やすことがなかった。
今回の殿堂入りは鶴田の強さと同時に「挑戦する心が米国人に認められたのではないか」とあるプロレス関係者。
日本のプロレス界の三大スーパースターは「力道山、馬場、猪木」の3人でほぼ間違いはないが、
誰が一番強かったかを問うときに、必ずといっていいほど鶴田の名前が登場する。
鶴田のあきらめない人生には学ぶべき点が多く、すべてのアスリートに勇気と希望を与えている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141220-00000535-san-spo
産経新聞 12月20日(土)20時15分配信
「人生はチャレンジだ」-。
ジャンボ鶴田(1951年3月~2000年5月)という昭和のプロレス界を代表する人気レスラーが米国で「殿堂入り」を果たすことになった。
日本人としては、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次いで4人目の快挙。
若い頃はあと一歩のところで勝ちきることができない「善戦マン」などと揶揄されたが、
眠っていた才能が開花すると「プロレス界史上最強」とまで言われた。
没後15年を迎える中、鶴田の原点ともいえる米国で再び光が当たることをファンは心底喜んでいる。
日々、挑戦することを信条にした鶴田の49年の生涯をひもとく。
■バスケ出身のレスラー
本名・鶴田友美。身長196センチ。
いかつい体には似つかわしくない女性的な優しい名は、鶴田の優しい人柄そのものだ。
山梨県のぶどう園の農家に生まれた。
日川高校から中大法学部に進み、大学1年までバスケットボールで活躍し、五輪出場の夢を抱いてレスリングに転向した。
天性の運動神経ですぐさま頭角を現し、1972年ミュンヘン五輪に出場。
軽量級の加藤喜代美らが金メダルに輝く中で、鶴田は初のひのき舞台で並み居るヘビー級選手に歯が立たなかった。
しかし、五輪での挫折がプロレスに向かわせるきっかけになる。
レスリングで培った技術と体力がジャイアント馬場の目に留まった。のちに師となる馬場からプロレス入りを勧められると、挑戦する心に火がついた。
その入団会見で発した「全日本プロレスに就職します」は、初々しい新社会人を彷彿とさせ、鶴田らしい"名ゼリフ"として今も語り継がれている。
米国テキサス州でプロデビューを果たし、150戦を消化しながらその名をとどろかせた。
帰国後は「全日のエース」としてタイトルを奪取。
馬場人気の陰りとは裏腹に、怪物・鶴田の人気と実力は誰もが認めるところとなった。
■「敵地」で受けた鶴田コール
同業レスラーから恐れられるほどの破壊力を誇ったが、馬場や猪木と違って鶴田には「伝説」が少ない。
その全盛期が短かったことも一因だが、90年2月10日は「プロレスの歴史を変えた日」と形容されるほど、ファンや関係者にインパクトを与えた。
東京ドームで開催された新日本プロレスの新年イベントに、全日本のレスラーが参加したのだからタダ事ではない。
アントニオ猪木の「新日本」は、ジャイアント馬場の「全日本」と袂を分かった団体であり、当時、両者は絶縁状態のような関係にあった。
緊迫ムードに包まれる中、新日イベントに全日の鶴田らが参戦すると、6万人の観客は罵声を浴びせるどころか、熱狂的な拍手とコールを送った。
団体の枠を超えた興行という複雑な事情が影響してか、テレビ中継はなく、その後も公式の映像は世に出回ることがなかった。
その場に居合わせたファンだけが味わうことができた感動の舞台は、さながら「プロレス版オリンピック」と化したという。
■何歳でも挑戦できる
"大卒プロレスラー"は引退後も、スポーツ生理学を学ぶなどインテリジェンスに包まれていた。
しかし、20代、30代の無理がたたって、40代になると満身創痍の体となった。
海外で肝臓移植の手術を受けているときにショック症状を起こし、49歳の若さで命を落とす。
死の瞬間まで、信条としたチャレンジ精神を絶やすことがなかった。
今回の殿堂入りは鶴田の強さと同時に「挑戦する心が米国人に認められたのではないか」とあるプロレス関係者。
日本のプロレス界の三大スーパースターは「力道山、馬場、猪木」の3人でほぼ間違いはないが、
誰が一番強かったかを問うときに、必ずといっていいほど鶴田の名前が登場する。
鶴田のあきらめない人生には学ぶべき点が多く、すべてのアスリートに勇気と希望を与えている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141220-00000535-san-spo
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